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琵琶湖ワイナリーと日本のワインの父と慶應義塾と古典を学ぶ大切さ
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現在住んでいるところから徒歩で数分のところに、神戸市東灘区深江南という地区があります。昔はきれいな海岸沿いの別荘地、今は防潮堤に囲まれ、沖には食品工場団地がある人工島が埋め立てられ、物流基地に隣接する殺風景な場所となってしまっているところに、本社が滋賀県草津市にある太田酒造という会社の灘の醸造所があります。現在の灘の日本酒の原料たる米は県下ほかから、地下水は六甲山の水脈の井戸から採取されますから、工業地帯に立地する醸造所であっても品質に問題はありません。醸造工場の社屋の別館として、近江兄弟社で知られるヴォーリズの設計による旧小寺源吾別邸が隣接して現存しています。小寺源吾という経済人は1903年に慶應義塾の理財科を卒業し大日本紡績(現ユニチカ)などの経営に携わった人です。太田酒造の草津で醸造される清酒の銘柄は”道灌”であり、現在の草津の太田家は江戸城築城で知られる太田道灌を祖先に持つ、東海道五十三次の52番目の宿場で中山道が合流する草津宿にて重要な役目を勤めた家系でもあります。この太田酒造が滋賀県の栗東市(リットウシ、日本中央競馬会のトレーニングセンターがある)でワイナリーを持ち、素晴らしいワインを生産されていると聞いたのは数年前のことです。 調べてみると、ワイナリーの所在地は、草津市のJR草津駅、南草津駅、双方の駅とも”鉄”が絶賛する”スピード”と”複々線”と”敦賀-播州赤穂という長距離”で知られるJRの新快速の停車で発展著しい町となっているところの隣の市、栗東市の郊外にあります。在来線の新快速の存在があまりに優れているので、栗東駅近くに設置すると計画されていた、“のぞみの停まらない”新幹線新駅構想は、無意味、かえって時間のロス、特定利害関係者の利益誘導、資金の大半が地元負担となる無駄使いの発案として支持を集められず廃案となってしまいました。草津市街から東方向の山裾、6-7kmのところにワイナリーがあり、栗東市のコミュニティバスの運行経路から遠く離れていないものの、観光客が利用するには無理があるため、この”琵琶湖ワイナリー”訪問はのびのびになっていました。 2020年の12月に思いきって行きは南草津駅からタクシー、帰りは徒歩と運が良ければ途中から路線バスという大まかな時間配分を決めて訪問しました。 草津市の郊外、栗東市の山間部にあるワイナリーの所在地は、もともとは天台宗の金勝寺が所有する山だったのですが、明治4年に政府が管理する管林となり、その後、昭和20年に東久邇宮家より太田家に貸与され昭和22年からブドウ栽培が始まり、終戦後は、土地は地元の人の所有となったという経緯があるところです。ワイナリーは思ったよりは狭かったのですが現代建築のテースティングスペースをもった建物もできており、複数のぶどう品種が栽培されているとのことでした。 このワイナリーが現在もっとも力を入れているワインの銘柄名は”浅柄野(アサガラノ:ワイナリーの所在地名)Minori"であり、赤と白がありますがMinoriの赤はぶどう品種ヤマ・ソーヴィニョンとマスカット・ベーリーAを主体としてのブレンド赤ワインです。(収穫年によりブレンド使用する葡萄品種や比率は異なるとのこと)、白は後述するレッド・ミルレンニュームという品種とセミヨンをブレンドしたものです。ブレンドと醸造にあたっては、滋賀県下の料理に定評のある複数のホテルのレストランのソムリエが太田酒造と協力しブレンドする葡萄品種や比率を決めたうえ、販売もそれらホテルのレストランが協力するという、滋賀産地ブランドワインの育成の願いが込められています。 さてマスカット・ベーリーAというぶどう品種は、”日本のワインの父”と呼ばれている川上善兵衛(かわかみ ぜんべえ、1868年 - 1944年、新潟県上越市の岩の原葡萄園の創業者)がワインに適したぶどう品種として品種改良によって生み出したものです。川上家は越後の大地主(昨今の大地主とは桁が違う)でした。善兵衛は1882年に慶應義塾に入塾しており、1890年には勝海舟の勧めで、富国強兵、殖産興業政策の一環としてワイン製造に乗り出しています。勝海舟は本来、海軍士官養成コース、軍艦の操船を学んでいたはずの船乗りでしたが、1860年万延元年の遣米使節団において予備船だった咸臨丸での指揮をとったことになっており(技量については諸説あり)、この船には福沢先生が乗船されていたことは皆さんご存知だと思います。 私個人の考えですが、葡萄、ワインは軍人のための栄養飲料でもあり、水分補給手段でもあったわけで、単なる文明開化、脱亜入欧のためワイン製造奨励策がおこなわれたわけではないと思います。ローマ帝国の版図が広がると、必ずといってよいほど、寒冷地以外はワイン作りのための葡萄の栽培と上(下)水道と劇場の整備がおこなわれています。食中酒として、また飲料水が入手しにくい場所などでの水分の補給とエネルギー糖分の補給に有効な葡萄と葡萄酒は国家・社会の基本を支えてきたというのは事実です。 日本の音楽鑑賞に於いて大きな役割を果たした、第一次世界大戦後に日本の知識人を虜にした音楽文化の拠点だった、”浅草オペラ”(浅草という地名が現代の高尚な趣味をお持ちの方にはお気に召さないのか?藤原義江さんも初期に活躍した場でもあるのだが)とも重なる”電気ブラン”でも知られる神谷バー(現存)の創業者である神谷伝兵衛は1903年に牛久市にワインの醸造場の神谷シャトー(牛久シャトー、近年製造を停止し、記念館として公開されている。)を始めるなど葡萄酒の製造は日本中にひろまっていきました。そして時代の要請にあわせてワイン製造用の葡萄の品種改良に注力した日本のワインの父、川上善兵衛の存在があったのです。善兵衛によってマスカット・ベーリーAが開発されたのは1931年のことだそうです。 収穫が終わったぶどう畑を少し散策してから、来た道を草津市方向へ歩き出しました。ちょっとした事業所の社屋や住宅が農地の中に散在する、豊かな農業地域と田園住居地域が入り混じったような場所が続きます。数キロ歩いたでしょうか、休憩する場所も見つからなかったので、早く草津の市街地に辿り着こうと、草津市郊外を運行している民営路線バスの道路を推定し、ようやくバス停を発見! ラッキーなことにめったにこないバスが15分ほどの待ち時間でやってきました。バスに乗ってホット一息、終点のJR草津駅で下車し、今度は草津宿本陣(跡)と太田酒造本店の資料館の訪問です。 歴史ある家系を維持していくには大変な努力が必要なのでしょう。太田酒造本家の2階には、草津宿での太田家の歴史が展示されており、太田家の方と思われるご婦人に丁寧に歴史を説明していただきました。日本酒もワインも試飲即売されていましたが、すでにワインは何種類かはボトルで経験済みでしたので、はじめて見かけた、琵琶湖ワイナリーで栽培しているというレッド・ミルレンニュームという、日本では岩の原葡萄園と琵琶湖ワイナリーの二箇所だけでしか栽培されていないといわれる、川上善兵衛が昭和4年に品種改良で生み出した白ワイン用葡萄を用いた微発泡スパークリングワイン(ノンフィルター、瓶内発酵)の在庫が並んでいたので、一本購入したのち、旧街道を少し散策してから宿舎に戻りました。
大学時代、同じ専攻に鵜山仁君がおりました。卒業以来、彼とは一度も会っていませんが、ネットで見る限り、柔和なおじ(い?)さんとなり、演出の日本の第一人者になっていることがよくわかります。彼は三田の時代は、細身の文学青年で、ワグネルに籍をおいていました。少し上を向き顔を横30度ほどにして一心不乱に歌っていた彼の顔を今でも覚えています。混声も歌いたかったようで二・三回、楽友会の練習にも参加していました(当時、三田の学食は入って左側のずっと奥、東の庭側に楽友会、隣接する中央列のほうのテーブルがワグネルの島でした)。卒業前に、卒業後の進路について尋ねたことがあったと記憶していますが、修士・博士課程に進んで研究者となるよりも(多分選考にアプライしていなかったはず)、もっと実践的なことに取り組みたいと話していたことは覚えています。 断捨離ではありませんが、視力も衰えてきているので蔵書を二年ほど前から整理しています。過去に何回も、”二度と読まないだろう”という本は処分してきていたので、残っている本の殆どは、”残しておきたい、もう一度読むかもしれない”or”読みたくて買ったが、読めていない、死ぬまでに読もう”という本が残っています。大学の授業で使ったNouveaux Classic Larousseのラシーヌ(Jean Racine)のバジャゼ(Bajazet)というトルコの宮廷を題材にした悲劇の本が手許に残っています。ラシーヌやコルネイユの作品は何冊か残っているのですが、Bajazetは三回生の時だったと記憶していますが、学科の先生方の人脈の力だと思いますが、当時のラシーヌの研究の第一人者だった二宮敬先生にわざわざ非常勤講師として三田に来ていただいての、選択必修科目として原文講読のため使用したものです。今となっては物語の細部は覚えていないのですが、本編を含め殆どのページに書き込みをしていましたので、真面目にこのトルコの後宮を舞台とした、繰り広げられる色恋と后妃ロクサーヌほかの悲劇を辞書を片手に勉強していたことは間違いありません。鵜山君もこの授業を受けていたはずです。彼が大成したのは、私の勝手な想像ですが、フランス古典劇との出会い、アーサー王研究で知られた厨川文夫先生(厨川先生は、義塾理財科卒の詩人で後に義塾の教授を務めた西脇順三郎の弟子でもあった)の流れをくむ高宮利行先生(当時はまだお若く、将来を嘱望された常勤講師の立場だった)による古語英語によって書かれたシェークスピア作品の講読の授業、そして合唱、と学部時代に真剣に取り組んだことが現在の鵜山君に結びついているのだと思います。若い時に古典に触れることがいかに大切かということです。(古典ばかりではなく、ゾラの世俗小説から現代評論、プレヴェールの歌謡詩までが必修の対象に含まれていました。) 貴族制度の余韻が色濃く残っている欧州や新興国米国においても、企業経営者や政治家や社会のリーダーには歴史や演劇や音楽を学んでいる人が多いことは、”how toもの”や”即戦力”、”目先の利益”(利益は大切だが)、表面上の完成度・達成度の結果を出さんがための、その場しのぎ、偽装、取り繕いが横行し、結果、劣化、没落が激しい現在の各面での日本の社会において欠けているものが何か?を示しているのかもしれません。 ふた昔前の時代では音楽用語、アカペラ(a cappellaという意味は理解していますが)という言葉は殆ど用いられていなかったと思います。皆川達夫先生などがNHKの番組でグレゴリオ聖歌を解説されておられたのを思い出すのですが、その延長線上にあるものなのでしょうか? 6年間、フレンチ=カナディアンのカトリックの修道会が運営する学校に通ったので、信者ではないのですが、いくつかの聖歌の合唱部分は全校生参加のミサでは歌った記憶はあります。 シアターピースなるものは、歌舞伎の花道での演出にも共通する多面的立体的表現様式の一つなのでしょうか?歌詞と旋律だけでは表現できないと参画者が考えての、必然的に生まれてきた表現様式なのでしょうか? 言語と聴覚だけではなく視覚が相乗効果をもたらし、より作品の本質に迫ることができるのでしょうか? 新しい様式を生み出したり、違った解釈をトライするには、人智(と愚かさ)の積み重ねである歴史の中で批判を吸収し、時代時代で新たな価値が付け加えられることで生き残り、普遍的な価値となっている古典を学んだうえで行うことが大切ということでしょう。 オペラだって悲劇もあれば喜劇もあり、オーディオ機器ができるまでは、劇場(と有産階級は楽譜)で、王侯貴族も、天井桟敷の立ち見では庶民が、流行歌を聞きに行く、また貴族やパトロンにおいては観劇者の服装、装飾品(時には不倫のしぐさも?)などをお互いにオペラグラスでチエックする社交の場の側面も強く、芸術至上主義の方が崇められる”総合芸術”とされる側面だけではない娯楽要素が大きかったはずです。それだからこそ”多様性”、”世俗性”が人の心をひきつけてきて”クラシック”という呼び名のジャンルで生き延びているのだと思います。
三回にわたり、滋賀県の”ひとり歩きシリーズ”を寄稿しましたが、義塾で学んだワインの父が生み出した葡萄品種が琵琶湖近くのワイナリーで美味しいワインとなっていることを発見できたことは大きな喜びでした。 ワイン造りは蘊蓄を傾ければきりがありません。大切なのは作り手の信念や思い込みを横においておいて、飲み手が素直に美味しいと感じるかどうかだと思います。歌も同じだと思います。
(2021/7/22) ■ ■ ■ ■ ■ |
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