リレー随筆コーナー

大昔のソ連演奏旅行


塚越敏雄(8期)


楽友のリレー随筆なら、合唱がらみのものがいいなと考えていた時、大昔に旧ソ連のモスクワとヤルタを、職場の合唱団で訪れたことを思い出した。

1963年4月、学校を卒業して(というより楽友会を卒業してといったほうが正しいか)入社した会社には、混声合唱団があった。新入社員は配属が決まる前に工場実習がある。昼休みの食事前に、旋盤いじりで油まみれになった手を洗っていると、きれいな合唱が聞こえてきた。思わず覗いたのが、職場の合唱団との出会いだった。
 

1968年の春、会社つながりで、デュークエイセスの「日本の歌」シリーズを記念した合唱コンクールへの参加を呼びかけられた。そこで合唱団の選抜メンバーで男声のダブルカルテット+ワンのユニット「サニーボーイズ」(サニーの名前は1966年に発売した車の名前からとった)を作り、産経ホールでのコンクールに参加し見事優勝した。「日本の歌」の中から「女ひとり」を独自アレンジした曲を歌った。最初の歌いだし「京都大原三千院、恋につかれた女が一人」は私のテノールソロ、デュークエイセスのリードテナーのポルタメントを真似しないで雰囲気を作るのに苦労したのは懐かしい思い出だ。

日ソ自動車労組交流をやろうという話が出て、1977年の夏、ソ連からはジルというトラック製造会社の組合のメンバーが訪日し、夏の青年キャンプに参加した。その中にソ連の民謡コンクールで全国優勝したという強烈なスラブソプラノが入っていて、キャンプファイヤーでその声を披露した。スラブ系のソプラノというとグルベローワやネトレプコを思い出すが、もっと地声を利かしたいかにもロシア民謡風の歌声だった。


コジャトバさん


下の写真の左が私

翌1978年そのお返しという形で、サニーボーイズに女声二人を補強して、ソ連でコンサートをすることになった。出発はちょうど成田開港初日の5月22日、箱崎のTCATからバスで成田に向かったが、車中文化放送のインタビューを受けたり、箱崎で撮られた写真が当日の読売夕刊に掲載されたり、機動隊が厳重警戒する中を、成田開港民間1番機のアエロフロートで出発した。反対派の燃やす煙を下に見ながら離陸した便には、タシケントで開かれる映画祭に出席する三船敏郎も乗り合わせていた。


三船敏郎さんと記念撮影

雪で真っ白なシベリア上空で出された機内食は、さすがソ連というほどまずかったが、モスクワのシェレメーチェボ国際空港までは10時間ほどかかった。入国管理の手続もなしに別室に通され、そのまま赤の広場に面したホテルモスクワ(焼ける前の6000室あるグランドホテル)に案内された。団長の部屋は20人は入れる会議室と応接室を備えたスイートルーム、団員にも個室が用意されていた。ソ連時代に旅行した人ならお分かりだが、廊下には監視役のような人がいて出入りを監視?していた。 翌日はモスクワ放送のインタビューを受けたが、帰国後日本向けの放送を聞いていた人がいたのにはびっくりした。モスクワ大学や赤の広場などお決まりの観光コースを案内され、最初のモスクワ滞在は、コンサートなしだった。


モスクワ大学で


トレチャコフ美術館で

翌朝シルの保養所があるヤルタに向かうため国内線のドモジェドヴォ空港に着いたが、出発できない。私たちのソ連入国のビザはヤルタに行くようになっていなかったのだ。さてどうなるかと思っていると、ジルの共産党役員が私たちのパスポートを持って2時間ほどでヤルタ行きを可能にしてきた。日本からの飛行機は大型旅客機IL62だったが、ヤルタ行きは国内線の中型ツボレフ154だった。パイロットは退役軍人で離陸し急上昇、着陸も急降下と日本では考えられないような操縦で、窓際にある換気口の枠ががたがたと外れてしまうスリル満点の飛行だった。


ヤルタ会談が行われた部屋

ヤルタはヤルタ会談が行われたことで日本でも有名な黒海に面した保養地である。空港からホテルに行く途中に、会談の行われたリバージュ宮殿やピオニールキャンプ「アルティーク」などを見学して宿舎のホテルヤルタに着いた。翌日ジルの保養所、彼らはサナトリウムと言っていたが、病院ではなく、従業員が休暇を過ごす保養所で、私たちは最初のコンサートを行った。ピアノ伴奏者がいなかったので、アカペラで日本の歌やロシア民謡など20曲ほどを用意した。静かな曲よりも民謡の小原節などが受け、手拍子を打ってノリノリだった。


サナトリウムでの演奏会

その夜は海辺のレストランで、歓迎のレセプションが開かれた。途中の岸壁には、ドイツからの客船も停泊していた。レストランは、昔風の帆船の中に作られ、アコーデオン弾きもいて、ウオッカと美味しい料理、そしてダンスで盛り上がった。ホテルまでの一杯機嫌で歌いながら歩いていると、ベランダから拍手が聞こえてきた。見ると妙齢のご婦人が二人見下ろしている。そこで一曲、ドイツ語でステンチェン(セレナーデ)を捧げたら、すごい受けようだった。

モスクワに戻り、クレムリン宮殿の見学やジルの労働組合の上部団体にあたる全ソ連自動車労組のドラグノフ委員長への表敬訪問などをこなして、その夜はボリショイサーカスの見学、翌日ジルの工場見学の後、交歓演奏会となった。


ジルの民謡合唱団


モスクワでの演奏

日本にもきたソプラノのコジャトバさんが「お客様にお菓子を捧げる歌」を歌うと子供たちがロシアの甘いお菓子を私たちに持ってきてくれた。そのあと。ジルのアマチュアグループとの交歓演奏会になり、男声合唱あり、女声合唱あり、もちろん混声合唱もあった。混声合唱はロシア民謡の合唱を、バラライカやバイヤンなどの民族楽器を伴奏にして、美しい民族衣装を着てうたう本格的なものだった。さらに、子供たちの踊りや、民話劇など、ジルの文化サークル総出だった。ジル工場は日本と同じく昼夜2交代シフトだったが、非番の人たちで講堂は満員だった。マナーの良さが印象的だった。女声陣を助っ人に入れたのは大正解で、着物姿で歌う荒城の月から始まる私たちの歌も喜んで聞いてもらえた。

日本から持参したフィルムが残り少なくなって、アルバート通りにあるモスクワで一番大きい写真用具店に連れて行ってもらった。35mmフィルムがあるか尋ねると「ある。ただし生フィルムだ」つまり、暗室で自分でマガジンに巻かないと使えないのだ。買わずに帰ってきた。

帰りは先方からお土産として、ロシア民謡のLPレコード10枚くらいと本物のバラライカそして200V用のサモワール(湯沸かし)を頂いた。200V用なので改造の必要があり、使えないでいるうちに行方不明になってしまった。バラライカはまだ棚にある。OSFのKさんに頼んで切れた弦は補充したが、?年棚ざらしか申し訳ない話だ。

(2020/9/16)

    


編集部 原稿集めに困る時期に塚越ライターに原稿依頼をする。その代りバトンを渡す相手を見つけなくてもよいという特典がある。彼は特別ライターなのです。彼の他にも、末続靖、田中博、土井承夫君らが特別ライターで、よく名前を見かけることと思います。

皆さん、バトンリレーが免除になる特別ライターになりたい方は連絡してください。

(2020/9/16・かっぱ)


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