リレー随筆コーナー

私の小さな音楽史(ここまで編)


大志万公博(22期)


楽友会時代は真面目に練習に通い、家内(23期:正美)も楽友会で調達するほどの熱心さでしたが、就職してからは仕事にかまけ、また10年ほど前に大阪に転居したこともあり、楽友三田会の皆様にはすっかり御無沙汰しています。この間、姿形も変化しましたので、町ですれ違っても気付かれないと思います。音楽は今もジャンルを問わず大好きで、広く浅く、(楽友会ではサブカルチャーなのでしょうが)クラシックではなく専らポップスを中心に楽しんできました。このような機会を頂きましたので、皆様にとっては何の価値も意味もありませんが、私の小さな音楽史(ここまで編)を纏めてみました。


我々夫婦の近況。どういうわけか傾斜していますが、家屋は正常です。

物心ついた頃から音楽は大好きで、小学1年生の年に始まったNHKの「みんなの歌」を皮切りに、TVで流れる「夢で逢いましょう」「シャボン玉ホリデー」「ミッチと歌おう」「アンディ・ウィリアムズ・ショー」など、子供のくせにませた音楽番組を楽しみにしていました。特に衝撃を受けたのは、小学3〜4年生の頃、村の子供の集会(京都府福知山市育ち、その中でも田舎)で中学生がラジオで聞いていたベンチャーズのダイヤモンドヘッドです。エレキギターのテケテケサウンドに痺れ、小学生ながら「エレキギターが欲しい!」と親に懇願するも当然無視。そうこうするうち近所の大の仲良しS君の兄上が高校合格祝いにギターをもらうのですが、兄上は興味なくギターはS君の所有物となり、結果的に私とギターの付き合いが始まったのです。その頃はすでにフォークソング時代となっており、私も中学生になってようやくギターを入手しました。S君とはバンドの真似事をして、ブラザーズ・フォーやピーター・ポール&マリー(PPM)等の曲をステレオの左右のスピーカーで聞いて、自分たちで楽譜に起こして歌い、中学卒業の頃には「ハモる」ことの楽しさに嵌まってしまいました。

高校(福知山高校)では合唱部に入ります。「合唱なんて軟弱!」とか言っていましたが、クラブ勧誘で聞いた「蔵王讃歌」の迫力に「こんなにハモるんだ!しかも声がでかい!」と驚き、ここで音楽の世界が広がりました。尤も、男性が少なく常に男子募集の毎日でした。高校3年の最後の文化祭前に男子狩りをしたところ、数人の入部がありました。その一人が厚顔(紅顔ではなく)の少年であった24期幹事長の田村昇三君です。彼とはここから腐れ縁が始まり、高校、同部活、大学・学部・学科・ゼミ、楽友会とずっと一緒です。今もどういうわけか二人とも大阪で仕事をしています(会社は別)。

1973年4月に慶応大学入学のために上京しますが、当時大学は学費値上げ反対闘争でロックアウト状態にあり、結局入学式は開かれず、授業が始まったのは夏休み直前くらいでした。楽友会かワグネルか勉学か?など頭をよぎりましたが、そもそもキャンパスの様子がよくわからず、私の楽友会ライフは2年の夏休み前からスタートしました。中途採用でしたが、活動には真面目に参加しました。同期他ここで知り合った人達は私にとってかけがえのない宝物です。楽友会現役中の出来事トップ3を上げれば、

1. 青春讃歌の初演
2. 岐阜、伊丹への演奏旅行(関西学院大学混声合唱団エゴラドとの出会い)
   この時のエゴラド幹事長とは、一昨年、奇縁があり大阪で再会しました。
3. 家内との出会い(これは外せません)

というところでしょうか。

1977年に銀行に就職し、通算で東京20年・大阪で10年程勤めました。この間は「私の音楽史空白時代」ですが、入社後暫くしてカラオケが流行り始め、銀行員時代を通して、カラオケでは周囲から好評価を得ていました。

2008年に銀行の紹介で現在の会社に転職しました。銀行からは紹介に際して私の趣味嗜好・出身地などについて特段考慮していないとのことでしたが、不思議なことに、全国の著名な劇場や会館・コンサートホールなどに「迫り」「廻り舞台」「バトン」などの舞台機構を製造・施工するメーカーで、当時の工場はわが故郷の福知山にあったのでした(大学入学で上京した年に福知山に工場新設、今は神戸に移転)。入社早々に工場に出向いたところ、総務課長の奥様は高校合唱部時代の一年先輩のソプラノのパトリでした。こうして別の意味で、「再び舞台に立つ」ことになったのです。


米国公演

また、「芸は身を助ける」と言いますが、8年前に米国ユタ州の会社を買収した際、日本人の経営に不安を持つ地元社員と仲良くなるため、工場の従業員と懇親パーティーを開催しました。会場では学生ジャズカルテットがバックミュージックを奏でる中、成り行き上、日本代表として急遽英語の歌を歌うことになり、子供の頃にアンディ・ウィリアムズ・ショーで覚えていた「ムーン・リバー」を歌ったところ、大喝采でアンコールを求められ、2曲目はバンドのギターを借りてPPMの「花はどこへ行った」を自演しました。お陰で、翌日の工場視察では”Good Job!”の声があちこちからかかり、緊張関係が一気にほぐれました。その後、これまで事あるごとに「スマイル」「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」「この素晴らしい世界」等の歌を歌ってきました。私の音楽史ではこれを「米国公演」と呼んでいます(写真は第3回米国公演です)。

昨年2月に65歳になり高齢者に仲間入りしました。これを機にリタイア作戦に取り掛かっています。まず、手始めは福知山の田舎家の修復・引っ越しの準備等ですが、一番の目標は、家内と一緒に楽器と歌を楽しむことです。私の小さな音楽史「これから編」です。先日帰省した際、小学校時代の仲良しS君(京都市在住)とばったり会いました。彼の兄上の合格祝いのギターがなければ、私の音楽史はありません。不思議なものです。 

以上

≪さて、そんな訳で、このリレーのバトンは腐れ縁の24期の田村昇三君に渡します。≫

⇒これから彼に連絡します。

(2021/9/25)

    


編集部 大志万公博君から原稿が届きました。9月20日に阿部君からバトンが渡り、今日は25日です。

この迅速な原稿執筆にかっぱは嬉しいやらビックリするやら・・・有難う、大志万君。

かっぱ爺さんも地球の裏側や赤道の南、夏冬が逆の国など歌わされました。バンクーバー、メキシコ・シティ、リオデジャネイロ、メルボルンなどです。彼の米国公演を見て思い出します。

(2021/9/25・かっぱ)


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