リレー随筆コーナー

友会への2つの感謝



田村昇三(24期)


楽友三田会の皆さま方、大変ご無沙汰しております。24期の田村と申します。

先月下旬、敬愛する23期の大志万兄からバトンを引き継いで、断れる訳もないので、いずれ投稿するつもりでしたが、10月も半ばになってしまいました。すいません。

私事ですが、今年で延べ18年も単身赴任してまして、なかなか東京での集まりには出席できず、「楽友会新年会」に出席したのも5年前とすっかりご無沙汰しております。今は単身最後の年を大阪で過ごしていて、来春東京に帰れる予定ですが間違いなく家族は迷惑だと思います(笑)。

大阪は10年いますが、実は福澤先生誕生の地という石碑があったり、先生が青年期を過ごされた「適塾」もすぐ近くで先生と何かとゆかりが多い場所です。


中津藩蔵屋敷跡地に建つ「福澤諭吉誕生地」の石碑


緒方洪庵「適塾」大部屋

この石碑は事務所があるリーガロイヤルホテルから歩いて5分ぐらいのところにあります。ホテルの目の前の堂島川は当時物流の一大拠点として各藩の「蔵屋敷」が立ち並んでいたそうで、福澤先生もこの中津藩屋敷(現:大阪市福島区)で天保5年(1835年)にお生まれになりました。ただ翌年にはお父上の死去で中津に帰られますので、ほんのわずかの期間ですね。そして20才の時中津を出て、大坂の「適塾」に学ばれます。ここはほぼ当時のまま保存されていて、この2階の大部屋で先生を始め大村益次郎、橋本佐内、大鳥圭介、箕作秋坪などその後の維新や医学を支える英才たちが、文字通り寝食を共にしてオランダの知識を競い合って学んだのかと思うと感慨深いものがあります。寝る時は一人一畳を成績順に割り当てられ、成績が一番悪い塾生は人の出入りが一番多い階段脇を与えられたそうですから、私もその畳に非常に親しみを持って座りました(笑)。また時には喧嘩もあったのか写真に写っている柱には「刀傷」がそのまま残っています。場所は北浜なのでお近くの方は是非お勧めします。

さて楽友会には語りつくせない思い出と感謝の気持ちがありますが、紙面の関係もあるので今日は2つだけ私が非常に感謝してる事を書きます。

ひとつ目は皆さんもそうでしょうが、楽友会で出会った素晴らしき仲間達(先輩、同期、後輩等)です。

特に我々24期は17人中女声が4人しかいないといういびつなメンバー構成で(23期の先輩方のリクルート活動の失敗のせいです!!泣)、非常に個性的な人が多く、意見がぶつかる事もあり退団→再入団みたいな事もありましたが、なぜか非常に仲が良いメンバーでもありました。ここで、昨今いわれる「ダイバーシティマネジメント」の基本(多様性への理解)を体験できたことがその後の会社人生で大変役立ちました(笑)。

卒業後しばらくはみんな忙しそうでしたが、20数年前から「へろへろメール」と呼んでるグループメールを某氏が作ってくれ、実にくだらない飲み会の打合せや旅行の打合せ、近況報告等で生存確認をしています。考えてみれば当時働きざかりの40〜50才台のおっさん達が勤務中にそれぞれの会社PCや携帯メールで遊んでいる訳ですから決して誉められたものではないのですが・・・。そのおかげもあってか24期からは楽友三田会の元会長山本氏、元会長深井氏、元指揮者浮橋氏ら偉大な諸氏を輩出することが出来たのかもしれません。まっ、これも「ご縁」という事でこの先も長くて深いおつきあいが続くと思うので「へろへろメンバー」の皆さま、よろしくお願いいたします。

写真は福澤先生の実家のある中津市に何人かで旅行した時のものです。


福澤先生が19才まで過ごしたご実家


併設の福澤記念館に展示してあった「独立自尊新世紀を迎う」の書
明治34年(1901年)の元旦に書かれたようですが、その1ヶ月後にご逝去されました。

ふたつ目は「発声法」です。

イタリアのベルカント唱法なるものをボイストレーナーの沢田先生や先輩から徹底的に教えてもらい、日吉の練習場で横たわって声を出したり、ハミングから「マ〜」「ミ〜」「ム〜」・・・等の発声練習でいつの間にか複式呼吸や鼻腔共鳴が自然にできるようになりました。その後回りの人から会議や電話で「声が通る」とか「聞き取りやすい」と言われるのは、全てこの時に取得した複式呼吸のおかげです。また4年の時は幹事長もやらせていただいたので人前でしゃべる事にも慣れ、人数が多くなってもビビらずに話せるようになりました。歌はちっとも上達しませんでしたが、発声法はその後の社会生活で大変役に立ってます。

余談ですが、結婚式の司会の依頼も多く、楽友会メンバーの挙式もきちっと披露宴をする場合は同期のNHKアナウンサー青沼氏、民放系のお笑いがいいという方は田村にと、すみ分けができていました(笑)。会社に入ってからも社内の宴会はもちろん、社外からの司会の依頼が多く、披露宴の司会は20回以上、その他竣工披露パーティ司会等の依頼もあり、大安の日は朝と昼間のダブルヘッダーで司会を行い「謝礼」の方が月々のお小遣いよりずっと多かったこともあり、これも今考えれば楽友会のおかげです。

楽友会にはひたすら「感謝」ですm(_ _)m

最後に「楽友三田会」HPらしく音楽に関わる事も書いておきますが、最近興味がある音楽番組は「ストリートピアノ」の番組です♪。街ピアノ、駅ピアノ、空港ピアノなどとも言われていますが、定点カメラで延々と演者を撮り続け、ナレーションも無くテロップだけというあの番組です。

先日もBSでオランダのユトレヒト駅に設置してあるピアノを国籍も様々な老若男女が代わる代わる弾いて、たまたまそこを通りかかった人がギターやハーモニカやパーカッションで突然セッションを始めたり、コーラスが始まったりしてました。曲もベートーベンから童謡やスティービー・ワンダー、レイ・チャールズと実に様々で誰もが本当に「その一瞬」を心から楽しんでる姿が感動を呼びます。「音楽の力」が人々の心の支えになっているんですね。なんか音楽の原点を見る想いです。

という事で次のバトンは25期の川端さんにお願いします。彼は私と同じ業界で活躍されていましたが、最近は横浜関内の地下街「マリナード」にお勤めで、そこの「街ピアノ」を活用して様々な情報発信してらっしゃいます。先日もそこに楽友会現役の諸君を呼んでミニコンサートを開催したそうです!! 舞台裏のご苦労含めて楽しいお話が聞けるといいなと思います。あっ、ご本人も快諾してくれました。

以上、とりとめもない駄文におつきあいいただきありがとうございます。

また、お会いできる日を楽しみに♪

2021年10月7日

    


編集部 大志万君からバトンが渡ったのが9月25日。バタバタしているから来月になりますと、返信が来ました。今日、10月7日に原稿が送られて来ました。何と素早い仕事でしょう。

忙しい人ほど仕事が早いのです。「物事を頼むなら忙しい人に頼むのがよい」という教えがあります。憶えておくと役立ちます。

緒方洪庵の話が出てきて懐かしいです。洪庵の「ひひ孫=玄孫」が普通部で同じクラスでしかも席が隣の列で仲良くしていました。緒方は医学部に進学し卒業後は松本の信州大学医学部付属病院に勤務しました。昔々のクラス会を2人で漢字をやり開いて以来、会っていません。

(2021/10/7・かっぱ)


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