リレー随筆コーナー

合唱とマレーシアが教えてくれたもの


  林田 雅之
21期)


会社というものは時に人に思わぬ経験をさせてくれるものである。2007年6月30日、今まで慣れ親しんだ神奈川県平塚の地を後にし、初めての海外駐在のためマレーシアに出発した。

それまで海外工場の設立や、製品の海外移転、製品PRなどで海外出張が多く、海外へ行くことには慣れていたが、駐在となると話は別である。私が通った幼稚園から大学(矢上台)、そして就職したトキコまですべて神奈川県にあり、神奈川県から一歩も出たことがなかった。また両親と同居を選んだため、自分の家からも出たことがない、稀にみるぬるま湯環境で54年の歳月を過ごしてしまったのである。

その当時、母、義理の母が健在で子供も大学生で家から通っていたこと、家内も仕事をしていたことから成り行きで、おのずと単身赴任となった。

マレーシアはマレー人約60%、チャイニーズ約25%、インド人8%、その他多くの少数民族、外国人が暮らしている多民族国家である。国の宗教がイスラム教でありながら、道教、仏教、ヒンズー教、キリスト教他を認め、言葉も生活習慣も文化も食習慣も異なり、肌の色も違う多民族が仲良く暮らす国なのである。最も驚くのは女性の衣装である。モスレムは肌も髪の毛も見えないように、トゥドゥン、バジュクロンで覆うが、マレーシアンチャイニーズはショートパンツとTシャツ姿、スカートでもほとんど素足、マレーシアンインデアンはやはりあまり肌をみせない民族衣装等、それぞれの人種がそれぞれの服装で普通にいっしょに働き、暮らしているのである。マレーシアは英語がどこでも通じ、外国人も多いため、日本人をあまり意識しないで生活できる。

さて駐在初日、車での通勤。自宅から会社までそんなに難しい道ではないのだが、風景が似ているのと道路標識が英文字で瞬時に読めないため、道を間違え反対方向に走り、自分では戻れず、前任の社長に迎えに来てもらうというトラブル。その後も夜遅く帰宅し、コンドミニアムの鍵が見つからず車の中で寝たり、ATMからお金を引き出す際、慌てたため道路の側溝に落ちてしまい肋骨にひびが入ったり、と一人住まいのリスク管理ができていないことに、自分自身でも呆れてしまったものである。

新任の挨拶回りの中で、監査法人のデロイトに行った時、担当の秋元さんと話をしている中で、仕事の傍らKLグリークラブに所属し、歌を歌っている話を聞いた。彼からさっそく男声合唱団入部のお誘いを受けたのである。

小生の合唱遍歴は楽友会での4年間の後、市民合唱団の湘南市民コールに所属し、全日本合唱コンクール、ブルガリアのバルナで行われた世界合唱コンクール、小澤征爾新日フィルで数多くの歌を歌うという貴重な経験をした。しかし仕事が年齢とともに忙しくなり、33歳を境に合唱から遠ざかった。途中第九を歌ったり、ダブルカルテットの少人数のグループで歌ったことはあったが本格的に歌うことはほとんどなかった。

海外での生活を立ち上げること、仕事を前任から引き継ぐこと等で非常に忙しく入団を躊躇したが、こんな時だからこそ気晴らしにと、男声合唱の門をたたいた。

合唱はいろいろな人との出会いを作ってくれる。KLグリーに入団して最初の驚きは、団長の諸江さんが「林田さん慶應でしょ、水野さん知っていますか?」なんと楽友会同期の水野君を知っている人がマレーシア・クアラルンプールにいたのだ。世界は狭い。またKLグリーに参加することで、アジアには男声合唱を愛する人たちが大勢いることを知った。


アジア合唱祭

アジア各国の日本人男性合唱団は、毎年アジア合唱祭をアジアの各都市持ち回りで開催し、そこに香港、クアラルンプール、シンガポール、ジャカルタ、マニラ、バンコク、上海の7団体が集結するのである。各国合唱団は持ち歌を披露し、さらに最後に約120名全員で男声合唱を歌い上げるのである。小生は2009年第5回の香港から参加したが、香港の地でこんなにも合唱を愛する人たちがいることに感動した。2010年ホスト国でもあった第6回のクアラルンプール開催の時の合同演奏では多田武彦の「雨」「富士山作品第弐拾壱」は心が震え涙が止まらなかった。海外で合唱を愛する人たちとこんな感動を共有できるとは思ってもみなかった。

海外で仕事をすると日本の強み、弱みを実感する。前出の世界合唱コンクールに参加した27歳の時、初めてそれを合唱で実感した。

コンクールの前、他国の合唱団と交流する機会があったが、我々日本人と欧米人との体格差、すなわち一人ひとりの楽器の差に驚愕した。がっちりした体格、厚い胸板、響きそうな頭蓋骨、ロシア人の怒涛の歌声はあの体でなければ出ない、日本人の体形では作れない音楽である。たしか本番前、我々は自分たちの得意とする音楽を、再度確認して本番のコンクールに臨んだ。その結果はブルガリアに次ぐ2位であった。

その当時常任指揮者であった故関屋 晋、湘南市民コールが目指した音楽は合唱団において個人を活かしたそれでいて繊細な曲作りと緻密さ、生き生きとした中から湧き出る美しさの追及であった。この経験は私のその後のすべての考え方の基礎になった。

マレーシアに赴任して仕事をするとき、基本になったのは合唱から学んだ日本人の強みである。すなわち知力団体戦である。マレーシアの地で生産する製品を現地の人たちと、メイドインジャパンと同じ高品質と、短納期をアジア各国に提供するため、個人を活かしたティームジョブを現地マレーシア人のTanさんと共に根付かせた。その結果定着率が向上、グループ内の中国工場、タイ工場他よりも品質が良く、少人数で非常に効率的な運営を可能とし、リーマンショック後の2009年度もメンバーの協力のもと優秀な現場の人たちを一人も人員整理せずに黒字経営を貫くことができた。

KLグリーでは10月の定期演奏会前に必ず強化合宿がある。9月の合宿

中の夕食は大宴会となる。この時、たまたま日本人学校の三好先生と隣り合って飲んでいた際、日本人学校の中学生で知的障害者の生徒に実習させたいのだけれど、なかなか受け入れてくれる企業がないという話を聞いた。自分の会社でよければとのことで、二つ返事で工場実習を受け入れることにした。

会社のメンバーには障害者といえどもモノづくりの楽しさをわかるようなプログラムを作ってほしいとお願いし、みんなも快く引き受けてくれた。

2010年10月末三好先生とお母さんが下見に会社に来られた。知的障害者の生徒は中学2年生の大貴(ひろき)君、能力は小学校3年生程度と聞き、実習の内容を考えてくれるメンバーがどう対応するのか一抹の不安がよぎった。工場実習は翌年2011年1月10日から14日までの5日間と決まった。

実際の実習プログラムはすべて現地スタッフに考えてもらった。初日に実習最後の日にテストをすることも伝え実習をスタートした。スタッフのTanさんは毎日ひろき君がどのような作業をして、できたこと、できなかったことなどを詳細に報告書に書き、さらに毎日の作業の様子を写真に撮り、毎日ご両親と三好先生に手渡した。

実習日程は会社で生産している、日立ベビコン(エアーコンプレッサー)の製造全行程をひろき君に実習してもらうというもので、技術や品質を要する溶接工程、ロー付け工程、塗装工程等は工場のメンバーが作業する腕に、つかまりながら、感覚をわかってもらうなどの工夫を凝らしてくれた。コンプレッサーのタンクや配管作り、本体組立、塗装、出荷試験、そして出荷のための梱包作業と全行程を体験してもらった。もちろん安全の配慮は怠りなく、すべての工程で工場の各リーダが付きっきりで面倒を見てくれたのである。

私自身詳細を知らされていなかったため、毎日現場で作業内容を確認したが、見るたびにマレーシア人のやさしさに触れて驚きと感謝の気持ちでいっぱいになった。

最終日テストが用意されており、その結果を知らされた。ツールの名前、機械の名前、工程の名前等、すべて英語で答え100点であった。忙しい中Tanさんが付きっきりで毎日何回も何回も書いて教えていた結果である。

 


修了証書授与

会社としてご両親、三好先生の前で修了のセレモニーを行うため、社印の入った修了証書を準備していた。しかし、私も知らなかったがもう一冊分厚いファイルが準備されていた。前記の日々の報告書、作業の写真、そしていつの間にか撮ったひろき君を囲んだ各作業グループメンバーとの写真、そして100点満点の試験結果をとじこんだ厚いファイルだった。これらを熱い握手と拍手で手渡し、ご両親と先生を皆で見送った。

ひろき君やご両親、先生が帰った後、ひろき君へ手渡した分厚いレポートのコピーをTanさんが自分の机の所へ持ってきてくれた。私はそのレポートや写真を机の上で繰りながら、Tanさんにお礼を言おうとしたが、涙が溢れ声にならなかった。マレーシア人の優しさに感動した。

翌日、校長先生から、日本ではとてもできないような貴重な実習を体験させていただいた、との丁重なお礼の電話をいただいた。また後日、ひろき君からのお礼の手紙ももらった。さっそく返事を書いてお送りしたところ、三好先生からひろき君が大事そうに持ってきて、先生に見せてくれたとのこと。さらに他の中学二年生に交じって堂々と実習の発表をしたとのことで、ひろき君が作った発表の模造紙もメールで送ってくれた。


ひろき君作成の発表用ポスター

会社のメンバーとその発表の模造紙を見て大いに喜んだ。ひろき君は実習の内容や、体験して面白かった事、難しかった事を自分の字で書いていた。日立ベビコンがどのように使われているかも絵で書いてくれていた。会社のメンバーの思いが伝わったのだ。本当にうれしかった。

マレーシアは多民族国家であるため、お互いの民族を干渉しない、それが当たり前に行われ、一緒に仕事をし、生活をしているのである。マレーシアに行くまでは、たとえば肌の色や言葉が違うことだけで気になり自然と自分でバリアを作っていたと思う。今では全く気にならなくなり、空気と同じになった。

マレーシア人が見せて教えてくれた、知的障害者の人とのかかわりも全く同じであった。かわいそうとか特別の感情を持つのでなく普段の生活の中で、全く普通に接し対応することで、優しい社会が生まれるのである。マレーシアで得たものは本当に大きかった。


フェアウェルパーティ

私は2013年9月28日に帰国し、9月30日で前の会社を退職した。その年の10月7日から障害者支援の会社である褐、進で働き始め1年3か月になる。現在、日々障害者と接し、障害者の仕事を作り出す「いのちの森づくり」の仕事をしている。

私は合唱とマレーシアが教えてくれた心を大切に、残りの人生を障害者支援にかけようと思う。

バトンは23期樋口頼子さんにお渡ししました。(2015/1/8)

    


編集部注:正月明け早々に林田君から「楽友」の原稿が送られてきた。私達じいさんとは年がひと回り以上も違うので互いに面識がなかった。ところが、本文にも登場する同期の水野君がご自身の投稿原稿の中で林田君をマレーシアに送り出す時の写真を出してくれた。私はこの写真をよく憶えていて林田君の顔はひと目で識別できた。感動的な経験がひしひしと伝わってくる。(2015/1/8・かっぱ)

林田君に「掲載できたぞ」と知らせたら、その返信に現在の障害者支援の仕事中の写真を送ってくれました。(1/9)

現在の小生の写真を添付します。スーパーマーケットの前の空きスペースに緑地帯作りを設計提案して採用され完成した写真です。地盤づくり、レンガ積み、幼苗植樹,モニュメント用コンクリート打ち、陶板制作、モニュメント完成とすべて自前で作り、障害者の工賃に還元しています。さらに緑地帯の管理の仕事もいただいています。現在3店舗まで完成です。

このほか学校の森づくりで、平塚盲学校に「四季折々の緑を香りで感じる緑地帯作り」も昨年11月末に完成しました。障害者へ工賃を還元する仕事を作り出すのに苦労しております。