楽友三田会
「岡忠会」開催について

芳野 一夫

「会友の会」を、今年も11月25日に、1年半ぶりに開いた。当日の参加者は、岡田先生を含めて12人、夫人2人、それに今年は後輩の筑紫武晴君、小笹和彦君もゲストとして加わり16名でにぎやかに歓談した。

相変わらず、昔の顔に戻り、お互いに悪口をいいあったりして、大いに盛りあがる。今年は、小笹君が始めたホームページ「楽友」のクロニクルの記事が話題の中心になった。 音楽愛好会ができた頃のことを、いろいろ思い出したが、何といっても高校生が国立音楽学校の生徒に混じって「第九」や「天地創造」を歌ったことが大きい。

当時ろくに歌ったこともなく、楽譜も読めなかった17歳のニキビの残る若者たちの集団が、日比谷公会堂の舞台に立ったとは、今思い返しても驚きの限りだ。私はテナーを受けもっていたが、その仲間の中に故人となった藤本祐三君がいた。彼は素晴らしい美声とボリュームをもっていて、彼だけは音大生に混じっても遜色が無かった。私はいつも彼のそばにいて、イザとなれば口パクパクでも仕方が無いと思いながら夢中で歌ったのを覚えている。

女子高との混声合唱も画期的なことだったと思う。これには、岡田先生の並々ならぬご努力があったと思う。卒業の頃には進藤重行君、十合啓一君が中心になって、会誌「楽友」を作り上げた。ガリ版刷りの手作りのものだったが、愛好会の絆をいつまでも残してゆこうという思いをこめて作った。

そんな夢多き高校時代から、大学に進学したが、メンバーも各学部に別れてしまい、なかなか一緒に集まって音楽活動をする機会も少なくなった。そして昭和30年、厳しい年、就職難時代を経て、社会へ旅立ったメンバー達。プロの音楽家を目指す者、企業戦士として走り出す者、そして地方へ転勤する者など、それぞれ生活が違って、10数年は一緒に行動することは無かった。

なんとか昔の絆を取り戻したいと思っているところへ、昭和50年すぎて、岡田先生から年に一度「南極」の氷が手に入るとの情報を得た。そこで旧友十数人が集まり、岡田先生のお宅で試飲会をすることになった。当時の高価なウイスキー・シーバスリーガルを1本仕入れ、アイスペル1杯分程の僅かな氷で水割りを作り・・・「さすがに美味い」と絶賛した。それは始めの1杯だけ、あとは安いウイスキーをガブガブ飲んで、ガンガン歌ったものだ。中には完全に酔っ払い、先生のピアノの下に寝こんで帰れなかった奴もいた。先生の奥様には大変迷惑をかけたと思う。

ようやく、再会の機会を得たメンバーは、数回このような集まりを続けたあと、こんどは旅行に出ようということになった。先生を交え、熱海・四万などの温泉に10人くらいで出かけて、大いにダベりながら、フロの中でガンガン歌ったのを覚えている。この頃テレビですっかり人気者になってしまった「寺内貫太郎」こと小林亜星君を連れて、温泉街を歩くのに一苦労したのも懐かしい思い出だ。

やがて年を経て昭和60年代後半になり、メンバーも会社の定年が近くなって「この会もそろそろ夫婦同伴で参加するようにしよう」という声があがり、岡田先生夫妻も含めた会を始めた。音楽愛好会ではなかったが、何らかの音楽に係わったメンバーも交えて、20人近い顔ぶれが揃った。それからは1〜2年に1回の割合で旧交を温めてきている。

昔話をしたり、古い楽譜を取り出して、男声合唱をしたりとにぎやかになった。ズボラな幹事で、それまで「いつもの集まり」とか「例の会」などあいまいないい方だったが、いつまでも続けてゆこうと会の名前をつけたのが、やっと4年前のこと。やはり、愛好会創立の頃に苦楽を共にしたメンバーだし、何といっても、岡田先生の厳しい指導で育ったことから、先生のご承諾を得て「岡忠会」と名付けた。

とはいえ、今年でいよいよ「後期高齢者」の会になった。残念ながら、今年も3人の仲間が病気療養ということで、参加できなかった。来年には、ぜひ戻ってきて欲しいと願うとともに、この機会に、昔を懐かしむだけでなく、草創期の記録を後輩にも残してゆくことを念頭に、若いメンバーとの交流も深めながら、いつまでも元気に、「岡忠会」を続けてゆきたい。(12月3日)