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前頁の表にみるように、塾高創設(48年)と共に始まった「音楽愛好会」は、その3年後に52名の会員を数える立派な組織に成長しました。この時、塾高全体の生徒数は3学年総計で約2,700名ですから、愛好会員比率は2%にしか過ぎません。しかし、この男声合唱団が、今日の楽友会醸成の礎石となったのです。
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この草創期に際立つ特徴は外部演奏会、それも当代一流の指揮者・演奏団体への出演が主になっている、ということです。曲目はベートーヴェンの「第九交響曲(合唱つき)」。現在はもちろん、当時の素人の高校生にとっては稀有の幸運であり、それが原動力となって発展が加速したことと思われます。
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それに拍車をかけたのが、50年に新設されたばかりの女子高校と提携し、混声合唱団を発足させたことでしょう。黒い制服・制帽のひしめく日吉の丘に、明るいグレーの制服に身を包んだ清楚な女子高生の姿と歌声が、新鮮な驚きと喜びをもたらしたはずです。
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驚くべきことに、そのできたばかりの混声合唱団が、早くもその年11月に、ハイドンのオラトリオ「天地創造」を全曲上演しています。女声陣は4月に高校生になったばかりの一年生。その大半が生まれて初めての楽譜やドイツ語の特訓を受けて演奏に臨んだのです。男声陣といえども、推定平均年齢17歳の、ようやく変声期を過ぎたばかりの高校生。しかも両校は地理的に日吉と三田で約1時間半も離れており、合同練習は週末の午後と夏休みに限られていました。よくもこれだけの大曲が仕上がったものと驚嘆します。
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こうした、現在からみれば、無謀とも思える壮挙の舞台裏に、自ずと岡田名誉会長の若き日の姿が浮かんできます。当時25歳(推定)。新進気鋭の先生は、類もまれな音楽的才能と向上心、そして恵まれた人脈をバックに、獅子奮迅の勢いでこれらの実現に邁進されたのです。
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敗戦から僅かに5年。成人男性が著しく減少し、戦災で焦土と化した国の復興は進まず、生活が困窮し、人心が日々にすさんでいく中で、心ある人々に音楽を求める声が高まりました。そうした時代の要請にこたえるのに「第九」程ふさわしい音楽が他にあったでしょうか。軍歌に代え、自由と平和を讃美する「歓喜の歌」が人々の渇いた心を鼓舞するものと期待されました。ところが、合唱できる男声の数が絶対的に不足していたのです。
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そのような時代だからこそ、普通高校の男子生徒がいきなり日比谷公会堂という、当時最高の晴れ舞台に登壇することができたといえるでしょう。しかし、もしそこに岡田先生と、先生の恩師である有馬先生や尾高先生がおられなかったら、慶應の音楽愛好会員が、その光栄に浴することはなかったでしょう。
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「天地創造」の全曲演奏にしても、岡田先生の存在なくしては語れません。前述の「音楽愛好会生ひ立ちの記」によれば、その演奏会の主催者が中等部となっています。なぜ「中等部」なのか。不思議に思い、色々と調べた結果、次のようなことが分かりました。「ような」と書くのは、事実の裏付けとなる資料はなく、あくまでも関係者の記憶や傍証をまとめた類推に過ぎないからです。けれども、大筋として次のような経緯で事が進んだことは間違いないものと思われます。
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