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樂友会誕生 | |||||||||||||||||||||||||
![]() 1952年5月5日 発足当時の新入生歓迎会箱根へのバス旅行(江ノ島) |
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時代は新憲法(47年施行)の下での国家再建に向かいます。横浜にあった大日本兵器㈱が、戦後すばやく兵器の「兵」を平和の「平」に変えて日平産業㈱という機械メーカーに転身した事実は、いろいろな意味で当時の日本を象徴しています。 いい意味でそれは、高度な兵器製造技術を、直ちに平和的な機械製造技術に転換しうる技術とノゥ・ハゥ、それをこなす優秀な人材がそろっていたことを示唆します。湯川秀樹博士がノーベル物理学賞を受賞したのもこの頃(49年)のことです。 こうして日本人は徐々に自信を回復し、史上類をみない平和的・民主的資本主義国家に生まれ変わりつつありました。が、肝心の資金がありません。そこに折も折、「朝鮮戦争(50~53年)」が勃発し、日本の経済はその特需景気で活性化したのです。 ▼ ちょうどその頃、「楽友」創刊号を置き土産に卒業した先輩たちの意を受け、高校3年生、即ち楽友会1期生となった筑紫武晴、伴有雄、橋本曜、長谷川洋也といった諸君が、矢継ぎ早に第2号、第3号の「楽友」を発行しました。
原稿集めだけでも大変だったと思いますが、第2号では頒布代金軽減のため、日吉の「赤屋根食堂」や三田の「三信洋服店」などから9件もの広告を集めています。驚くべき情熱の発露ですが、その背景に独立自尊の精神と、時代の転換を支える学生たちの気概を感じます。発行元は日吉の塾高で、編集委員はすべて男子高校生によるものですが、第2号から三田の女子高生の投稿が急増しています。 ▼ とはいえ、その頃の女子高は、2年生が上限で独自の組織ができていたわけではありません。前章に転載した中等部主催の音楽会プログラムを見ても、「天地創造」の全曲演奏をしたのは「高等学校混声合唱団」であって「音楽愛好会」ではありません。しかし、いったん優れた音楽体験を共有した男女両校の結束は、日吉と三田を行き来しておられた岡田先生を要としてますます強まり、その集まりを恒久的組織として確立しようという機運が高まりました。その熱気は自ずと外に現れ、51年6月23日に開催された「合唱祭」での演奏に、次のようなすばらしい講評が寄せられました(「楽友」第2号から転載)。
▼ 岡本敏明(1907-77)氏は岡田先生の恩師のお一人ですが、当時の音楽界、特に合唱音楽の分野で誰一人知らぬ人のない高名な音楽家であり、教育者でした。国立音楽大学と玉川大学の教授を兼務される一方、関東合唱連盟の常任理事を務め、さらに敬虔なキリスト者として、日本基督教団・弓町本郷教会で聖歌隊の育成指導にも力を尽くされた方です。 そういえば岡田先生の恩師の中にもう一人、キリスト教音楽界で名をはせた大中寅二(1896-1982)氏がおられます。大中先生は同じくプロテスタントの霊南坂教会で永年オルガニストと聖歌隊指揮者を務められた作曲家、教育者で、日本の教会音楽に偉大な貢献をされた方です。こうした筋金入りのキリスト者から薫陶を受けた岡田先生に、宗教音楽の神髄が伝わらないはずがありません。 こうして楽友会のメイン・ステージは「大楽聖ののこした数多くの」宗教曲を演奏することが定番となりました。そしてそれらを指揮する岡田先生は、まさに「熱火」のほとばしる表情でタクトをふられたのです。 ▼ 「勇将のもとに弱卒はいない」という諺がありますが、岡田先生の熱情を体した1期生たちは、高校を卒業しても「音楽愛好会」を去るに忍びず、52年6月大学に「楽友会」という愛好会員の受け皿的組織を創設し、高校生と行を共にしました。 それは慶應の一貫教育のよさを生かした、男女高校・大学一体型の混声合唱団育成を目指したすばらしい構想であり、それが「塾生の、塾生による、塾生のための音楽」という自治体制の萌芽となり、あわせて多忙な岡田先生を補佐する学生指揮者制度を定着させることになったのです。その重責を担ったのが伴有雄、筑紫武晴の両君で、それぞれ男声と女声合唱を分担指導して大学4年間を過ごし、「楽友会」組織を盤石のものとしたのです。(参照:Anthology/リレー随筆コーナー/「函館の夜」) (オザサ記) |
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