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第二次世界大戦が終わるとすぐにひたひたと、やがて怒涛のように技術革新の波が押し寄せてきました。36年生まれの筆者は、戦争中を含む小・中学生時代を「SPレコード」と「蓄音機」で過ごしました。中学時代に小遣いをため、ブルーノ・ワルターの指揮するモーツァルトの交響曲第41番「ジュピター」を買い、宝物のように大切に聞きましたが、それは直径25㎝のSP8枚を分厚いアルバムに収めた、かなりかさばるものでした。
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このSP盤は片面約3分しか録音されていません。従って、全曲聴き終わるのに8回盤を裏返し、8回差替えしなければならず、しかも、その間に盤を回すためのゼンマイを手巻きしたり、レコードの溝をトレースする金属針を取替えたりするので、とても手間がかかりました。それでも、戦時中の竹針よりはまだましで、盤を替える度に専用のハサミで先端を削ったり、取替えたりする面倒がなくなったことを喜んだものです。
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その環境が、高校に入る頃(50年代前半)に一変しました。LP盤やテープレコーダーが出現し、さらにはステレオ録音とその再生装置が巷に出回るようになったのです。朝のNHKラジオのクラシック番組で「長時間録音盤(LP)を使用しました」という耳慣れない言葉が頻繁に使われるようになり、ノイズがほとんどなく、片面30分で、しかも針にはダイヤモンドを使用した再生装置のお陰で、かつて耳にしたことがない数多くの名曲が聴けるようになったのです。
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問題はその価格です。当時LP1枚の値段は約3千円。55年度大学卒(男子)の初任給が平均12,907円の時代ですから、3千円といえば大金です。08年の大学卒(事務系)初任給は平均206,969円なので、単純に換算すると1枚約48,000円に相当します。普通の学生にはとても買えません。アルバイトしようにも現代のように職はなく、家庭教師の口がみつかればいい方です。週2回ほど通いで授業し、2~3か月分の謝礼でやっとLP1枚が買えるような状態。ましてレコード・プレイヤーなど夢のまた夢。「親のすねをかじる」しかなかったのです。
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「名曲喫茶」も大はやり。1杯50~60円のコーヒー代で聞きたいLPをリクエストし、何時間もねばって最新の音響装置による演奏を聴くのです。渋谷の「ランブル」や銀座の「田園」が塾生のたまり場でした。しかし、それよりずっと魅力的だったのが塾高の音楽教室でした。岡田忠彦先生を頂点とする「音楽愛好会」ないし「楽友会」草創期の会員たちは、その殆どが「音楽」の科目を選択し、授業とクラブ活動の両面で音楽への関心を深め、広め、満たすことができたのです。
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日吉の塾高の3階にあった音楽教室には、ごく普通の再生装置しかありませんでしたが、さすがにレコードの種類は豊富でした。音楽の授業は岡田先生が主で、3年をかけてソルフェージュから和声学に進み、最後は4声の讃美歌程度の作品を提出して卒業となりました。その過程で、LPを聞きながら教えられた楽曲アナリーゼは、一番楽しい授業でした。お陰で音楽を単に「聞く」だけではなく、スコアーや楽書に照らして「読む」習慣が身につきました。
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また皆川達夫先生による実践理論以外の授業によって、新しい地平が開けました。惜しいことに1学年900名の生徒中、この授業に出席したのは僅か2~3名でしたが、それだけに先生は、くつろいで机に腰かけたりしながらの談論風発。他では見ることも聞くこともなかったレコードをかけながら、ノートルダムやフランドル楽派の音楽、分けてもグレゴリオ聖歌を中心とした中世・ルネサンス期の音楽を熱く語ってくださいました。
その名講義は、65年から20年続いた朝のNHK-FMの「バロック音楽の楽しみ」から「合唱音楽の歴史(全音楽譜出版社)」、「洋楽事始(東芝レコード)」、「オラショ紀行(日本基督教団出版局/1981)」、「洋楽渡来考―キリシタン音楽の栄光と挫折(日本キリスト教団出版局/04)」といった数々の名著に発展し、今日なお止まることがありません。真に得がたい、生涯教育の師とめぐりあったものです。
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いささか個人的体験に偏りましたが、「音楽愛好会」と「楽友会」併走期の実情を示す一例として、あえて披露いたしました。というのも、この時期の活動が単に合唱を楽しむための課外活動ではなく、むしろ「音楽」の課外授業ともいうべき性格のものであったことを、実例を通して知って頂こうと思ったからです。
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こうして考えると、「音楽愛好会」の創始者たちが48年に「遠山一行先生(皆川達夫先生の前任者)解説による、2回のレコード・コンサートをもって活動を開始した(『楽友』創刊号/『音楽愛好会・生ひ立ちの記』/51年)」ことに合点がいきます。会員は「皆、普通部時代からコーラスをしようと話し合っていた連中(同書)」なので、まずコーラスの練習があって当然です。しかし、それよりレコード・コンサートが先行したのです。
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それはコンサート活動を、音楽愛好会活動の一つの重要な柱と考えていたことの証左でしょう。もちろん、その後に合唱活動も活発化しますが、コンサート活動はますます盛んになり、50年7月には、村田武雄先生(大学教授・音楽評論家)と加藤ルリ子氏(ピアニスト)によるバッハのゴールドベルク変奏曲全曲の「講演と鑑賞の集い」に発展し、その翌年には「ポピュラー・コンサート」と銘打ち、村田先生の解説で畑中良輔(バリトン)・更予(ソプラノ)ご夫妻と青山三郎(ピアノ)の3氏による、歌曲リサイタルに及んでいます。
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こうして岡田先生の采配のもとに、「学び」としての「鑑賞活動」と、「実践」としての「合唱活動」は、音楽愛好会活動の両翼として羽ばたきました。合唱活動については既述しましたが、レコード・コンサートもますます熱を帯び、村田・岡田・皆川の塾内教師陣に加え、野村光一・有坂愛彦・寺西春雄・田辺秀雄といった錚々たる外部講師を迎えて活況を呈しました。その回数は徐々に増し、54年度に6回、55年度には8回も開催されています(「楽友」第6号)。場所は主として、日吉の高校の図書室でした。(オザサ記)
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