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この時期の背景を象徴する面白い逸話があります。池田弥三郎先生が「女子学生亡国論」でマスコミに叩かれた事件です。先生は、後に次のように弁明しておられます。「ぼくが塾の理事をしていた頃、そのようなことを喋った覚えはある。だが、そんなに大げさなものじゃなく『亡校論』といったつもりだが、発音上問題があるので『亡国論』になり、それをマスコミがとりあげて、轟々たる非難を浴びた。が、本音は、女子学生は卒業証書片手に誰かの嫁になり、消費者になり、稼ぎがない。ところが、男子は相応の働きをして、母校に寄付をするようになる。だから、女子学生が増えれば寄付が減り、私学経営は危機に陥る、といった程度のことだ(池田弥三郎著作集第10巻/角川書店/1979)」。一方、同じ論を唱えていた早稲田の暉峻康隆教授に対し、「早稲田の女子学生は冴えないだろうが、慶應義塾はそうではない」と言ったという話も伝わっており、これはどうも世論が「女性差別だ!」と騒ぐほどのことではなく、仲のよい国文学者同士の戯言であったような気がします。
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とはいえ、それが物議をかもしたのは、戦後の急速な民主化や学制改革の波に乗り、50年代から女子大生が急増した事実があったからです。しかし、文学部は別として、塾の女子大生は微々たるもので、48年から8年間文学部に在籍した遠藤順子氏は「当時の慶應はまだ女子学生が少なくて、変な話ですけれど、大学に女子用のお手洗いがありませんでした。男女兼用。それが嫌でね(笑)。2、3年たってようやく男子用と女子用に分かれるようになったという有り様なの(「夫・遠藤周作を語る」文春文庫/00年)」と語っておられます。
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女子高の1期生=楽友会2期生が大挙して大学に進学したのは、そんな頃です(53年)。音楽愛好会出身の女声は大変な人気でした。ワグネル、放送研究会、演劇部その他から多くの勧誘があった、ということです。しかし、2期女声陣のほとんどは、自ら進んで楽友会に留まり「混声合唱団」の礎石となりました。これは勇気ある行動で、この快挙がなかったら、せっかく1期生が創設した楽友会に、その後の発展はなかったでしょう。
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「大挙して」と書きましたが、その数は114名(女子高調べ)未満で、全体からみればほんの僅かです。同年度の他のデータがないので正確な比較はできませんが、59年度の統計(三田メディア・センター調べ)では、全大学・大学院生の総数が17,163名で、その内女子大生が972名(5.7%)となっています。従って、女子高卒業生の全学生に占める割合は1%にも満たず、全女子学生の約10%程度のものだったと推測されます。ちなみにその年の女子校生数は402名と若干増加したようですが、日吉の2,588名の男子校生の16%にしかすぎません。
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話は横道にそれますが、その後「お手洗い」はどこに行っても別々に設置され、「女子学生亡国論」どころか入学志願者を男女にかかわらず必死に募り、「男女雇用機会均等法」等で社会環境も大きく変化しました。女子学生も半世紀で約10倍の10,629名となりましたが、全体数も33,170名と約2倍になったので、女子学生比率はまだ約30%です。キャンパス別では三田で37%、日吉(矢上を含む)で30%となっています。高校では、日吉の塾高男子が2,196名に漸減し、三田の女子高が約567名に漸増したにもかかわらず、女子は依然として少数派(26%)です(慶應義塾公式ホームページ/08年5月のデータによる)。
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ということで、「女声問題」は「混声合唱団楽友会」にとって、昔も今も最重要の課題であり続けるわけですが、草創期はより深刻な状況でありました。昔の「楽友」誌を読むと「男性は声が大きいのでびっくりする」「女性は声が小さすぎる。もっと自信をもって歌ってほしい」といった声が飛び交っています。
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下の写真は52年6月に中央大学講堂で行われた、朝日新聞社主催の「第7回合唱祭」に出演した時の情景で、ハイドンの「四季」から2曲(第2、28曲)を、岡田先生の指揮で歌った時のものですが、員数的には男声32名と女声34名とバランスがとれています。また、その下の写真は同年12月にYWCAホールで行われた第1回発表会のもので(指揮:筑紫武晴/ピアノ:舘野泉)、このステージで合唱した男女は17:27と、女声が優勢に見受けられます。しかし、さらにその下にある関係者全員の記念写真では、有馬初代会長をはじめとする諸先生を除いた男女学生数は36:28であり、男声優勢がはっきりしています。それは男声が、ステージ毎あるいは演奏会の機会毎に、女声とのバランスをとって出演人員を調整されていたことを物語ります。
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