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発会式が「東京駅地下」で行われたのは確かなようです(「楽友」18号/故・松延貞雄君談話による)が、「地下」のどこで行われたか分からないのが癪の種です。このままでは「楽友会」が地下組織のようで面白くもあり、不可解でもあり、で、随分しつこく当時の様子を探ったのですが、その時に幹事をしてくださった川島理事はすでに他界され、そのご子息・川島修君(2期)すら「記憶にない」との事で全く手がかりがつかめません。あてどもなく八重洲地下街をさ迷い歩きましたが<忘却とは忘れ去ることなり。忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ>というセリフが浮かんでくるばかり・・・。
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そう。楽友会が発足した頃、この有名なセリフで始まるNHK連続ラジオ・ドラマ、菊田一夫の代表作「君の名は」が巷の話題をさらっていました。この放送時間帯には、銭湯の女湯に客がいなくなるとまでいわれた、戦争にまつわる悲恋物語が全盛の時代だったのです。今の八重洲地下街など夢のまた夢。東京駅周辺は瓦礫の山でした。ちなみに、旧大丸があった6階建ての八重洲口駅ビルが建ったのは、その3年後のことです。
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ですから、「東京駅地下」とはどこのことなのか興味津々なのですが、今となってはすべて「忘却」の彼方に消えてしまいました。それでも、八重洲地下街を歩いているとかつて和歌山の材木商・冨田又嗣君(5期)が開いた喫茶店や、長年三田会の会計を担当してくれている内藤哲夫君(11期)のメガネ屋さんがあったことを思い出し、案外懐かしい思いにかられます。雑踏の中から、幻想の「若き血」が聞こえてくるようです。
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話がだいぶ横道にそれましたが、この年の過密スケジュールには一驚させられます。音楽愛好会設立の時から数えてもまだ3年。大学生がいるといっても、ほやほやの1年生男子が5~6人いるだけの、殆どが高校生男女の集団が、これだけの活動をやってのけたのですから、その意気盛んな事、騎虎の勢いといえるでしょう。しかも学業をおろそかにしたわけではありません。各学年に1~2人は、俗に「出臍(でべそ)」という、校章が浮彫にされたバックルを獲得した優等生がいたのです。
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加えて、後に音楽を生業とする程の者たちも大勢いたのですから、その集団のやかましいこと!部室としても解放された音楽教員室は休み時間となると部員であふれ、音楽会評や哲学、文学論に花が咲き、果ては興奮した者が机の上で「白鳥の湖」を踊り出す始末。岡田先生も呆然と眺めるばかりの情景でした。
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このように傍若無人、よくいえば個性豊かな部員がそろっていたので、発足当初の楽友会には多くの議論が渦巻いていました。決して一枚岩の組織だったわけではありません。「楽友会分離案」なる一文が、新「楽友」の創刊号に載りました。発足早々の楽友会、しかもその会報第1号に「楽友会と音楽愛好会は分離すべきだ」という提案が出されたのは穏やかではありません。
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当時高1の筆者(4期)はそのことに驚き、また喜びました。「言論の自由」とはこういうことかと知ったのです。投稿者は高3の小林實君(2期)、編集者も同期の川島修君と松延貞雄君でした。彼等は互いに悪びれることなく、内部の葛藤を堂々と誌上に公開し、これに全員が関わることを促したのです。
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事の良し悪しは別として、爾来この問題は「女声問題」と共に、楽友会の二大問題として喧々諤々の論議をよび、その解決に向けて各自が主体的に関わることになったのです。(オザサ記)