追悼文集

福井 ちかし


斎藤 成八郎5期



福井君 大学4年生夏(1959)
志賀高原合宿

いま、福井を偲びながら高校樂友会の前身、音楽愛好会に入ったころのことを思い出している。

私の入会は高校2年の1月だった。高校生は大学生と一緒の活動を望むなら、楽友会に改めて入るという形で活動することになっていたが、実際には全員が樂友会に所属していた。その3月には、進級の祝いを兼ねて楽友会の合コンが行われたが、その時、我々5期生は、授業で岡田先生に習った和声学を土台にして、全員が童謡を1曲づつ混声合唱にアレンジして発表した。そのことがきっかけで福井も私も曲のアレンジや作曲に興味をもち始めたのだと思う。

福井は和音の進行に特別の興味を持っており、彼の弾くピアノは、曲を弾くのではなく、転調法とか、解決法とかの確認のようなもので、ピアノの側に付き合わされて、そういう方面の解説を聞かされるのがしばしばであった。一言で云えば「この進行すげえ綺麗だろう」の押し売りである。

やがて、同期の土屋さん(現姓神川さん)に「あなたたち少しちゃんと習ったら」と進められて、小船幸次郎先生の門下になり、大学の4年間、卒業後も暫く先生から作曲法を習いに二人で通った。私は自分の仕事の関係で、やがて継続をあきらめたが、福井は、何とか音楽で身を立てたいと考えていて、その思い一筋にその後も一人学習を続け通した。

彼は音楽家としての環境は、整っていなかったにもかかわらず、好きな道を地道に努力をして、自分独自の道を開いていった。これには頭が下がる。

物質文明、管理社会のなかで、人間性を大切にし、自分を生かすのは音楽であるとの学生時代からの思いをそのままに貫いたのである。

全音楽譜出版社に勤めた経験を生かし、編集企画、ビクター音楽教室の教育法の講師などを手がけた。これも人と人とのコミュニケーションを求めての選択であることは、彼自身が語っていたことである。子供の初期ピアノ学習法として、バイエル方式の前の過程の必要性を感じ、Dの鍵盤を基音として左右対称に音域を広げてゆくことによって、楽譜上の音符と、鍵盤の関係を覚えやすく教えることを考えた。その教育法によるピアノ教室チェーンを作りたいと夢を語っていたものだ。

音楽学校へ通ったわけでもないのに「よくぞ」と思っていたが、それは音楽教育の現場から学んだユニークな発想によるものだった。そういう細かいところに目が届く独特の視点を持っていたからこそ、音楽教室の教師に、子供への教育法を教えることが出来たのだろう。その数冊の教則本に載った練習曲は、彼自身の創作である。

彼は小曲を創りながらも、ミサ曲を書く夢をもっていた。その夢を実現させて、できあがった新曲の演奏を頼まれた。これを受けて同期の中浜の指揮で樂友三田会と東京スコラ・カントールムの有志の協力を得て発表演奏をした。それは日本の児童古謡調をベースにしたミサ曲であった。この時には、他に福井自身の指導する女声合唱、ソロ、重唱曲、更には愛娘かや乃さんのハープを伴う管楽器との重奏曲作品の演奏もあった。

その数年後、今度は「ヨハネによる福音」という3つの曲からなる組曲を創り、この曲の発表会の際、このうち第3曲を、先の合唱団が再び中浜の指揮で歌った。他の2曲も別の2グループが1曲づつ歌い、その中には、同期の西村も加わっていた。この曲を歌っていると、歌うほどに口語体の聖書の言葉が暗誦されてくるという経験をしたが、時が経って逆にヨハネ福音書を読むと、未だに彼の曲が浮かんでくる。今考えるとすごい形見を我々に残したものだと思う。彼は熱心なカトリック信者で、歌の力を知った上でのことであろうか、このような方法で、福音を伝えることを喜びとしていた。

彼は楽友会創立50周年の記念演奏会に出演すべく、不自由な身体を押して練習に出ていたが、本番1週間前に、2度目の脳梗塞で倒れ、出演はならなかった。

退院後は寝て過ごすことが多くなり、言葉も滞りがでていたが、そんなある時、中浜と一緒に見舞ったときには、驚くことに、回復してから、もう一度、自作の曲の演奏会を望み、「また歌ってくれ、これが出来たら死んでもいい」と云い、そのベースになる物語を考えてくれといわれた。

これはできない相談なので、「療養のいい糧になるから自分で構想を膨らませろ」、などと突き放さざるをえなかった。が、今となれば議論好きの福井は、そういうことを通じていろいろと話をしたかったのかもしれない。そういえば、「ヨハネによる福音」のときも、登場人物のキャラクターについて友人達に色々と意見を求めてきて、何度も議論をしたものだ。顧みて今更ながら、創作に一方ならぬ精力を注いでいたことが思いだされるのである。

念願の1曲が達成できなかったのは、残念だったかもしれない。しかし病状が進んだ段階でも覚えていて、やっと聞き分けられるような言葉でそれを云ったようだった。「すでに創ってあるのだ」とも聞こえたが、真相は、彼の言葉を理解することになれた奥様にもよく分からなかった。

また、ある時、ショートステイをしている老人ホームに、谷口、中浜の3人で見舞いに行った。この頃には聴覚はしっかりしているものの、既にほとんど言葉が出ず、会話が難しい状態になっていた。しかし歌を歌うと音程も歌詞も出てくるので、カルテットでハモッていると、入所していた療養施設の老人たちが周囲に沢山集まってきて、自然発生的にコンサートとなった。リクエストに応じて楽譜もないままに、現役時代に歌い慣れたものを次々に歌った。希望の島、赤とんぼ、山の乙女、うるわし五月、婆やのお家等々、それから童謡や愛唱歌。福井は歌詞を1番だけでなくよく覚えていて、それが歌と共に出てくるので、本当に驚いてしまった。長い間付き切りの看病で頑張っておられた奥様もびっくりしていた。我々はその様子を見て、あらためて歌の力の甚大さを知らされた。その後も福井を励まそうと、後輩の杉原、池田、浅海各夫妻等との音楽見舞がつづいた。同期の寺田、中浜は、福井自身の出版した曲集、「お父さんコーラス(サーベル社/04年刊)」から「My Way」などをOSF合唱団で演奏し、それをCD/DVD化して見舞っている。その時福井は、涙ながらに、かすかな声で「遥かな友に」を唱和したという。

現役時代から歌い続けられる共通の歌をもつということは、どこまでも幸せなことなのであり、このような形で、多くの楽友会仲間による見舞いを受けられたことは、福井としても大きな慰めであったと思う。

それにしても、目は見え、耳は聞こえ、感性もしっかりしている、だが体が動かない、言葉が出ない。つまり自分の側からの表現手段がほとんどないという苦しさはいかばかりであったか。とはいえ、ほとんど一方的に聴く側にいる喜びはといえば、神の声を聴くことであろう。福井はそのようにして、我々が見えないものを見ていたに違いない。臨終の顔は、この世の苦しさから開放されてほっとしたような顔であった。それによってこちらも安堵の別れをすることができたように思えるのである。(08年7月記)

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