追悼文集



日比野 隆哉君


下村 延久(6期)



日比野君(1995/5)
伊勢神宮参拝

私が楽友会に入会したのは、彼の勧誘の結果である。大学でたまたま同じクラスになり、慶應高校時代音楽愛好会にいた日比野君、中谷君とマージャン仲間となり、同じ高校から来た、松本君も彼の勧誘で楽友会に入り音楽と向き合うようになった。1〜2年のころは、マージャン屋に行く方が合唱の練習より多かったのではなかろうか。この仲間では音楽の才能があるのは、お父さまがN響のコンサートマスターをされていたことから、日比野君だけで、大学3年、4年になって定期演奏会の女声、混声コーラスの指揮をしていた。練習が混声合唱と女声合唱の日取りが違うため、女声練習で彼がどのような指揮をしていたのかは記憶にない。

大学3〜4年で三田に通うようになると、学生指揮者として演奏会にステージを踏む日比野君を除き、他の同級生は、幹事を仰せつかり、定期演奏会のプログラム作成で、記事集めその校正、印刷屋との交渉、広告取りでスポンサー廻り、と言っても半分はコネによる広告で集金の手間はなかったが、演奏会が近づくにつれ練習どころではなく、また、夏の合宿の際に地方公演を開催することになり、地元慶應OBへの後援依頼など、彼と違って裏方専門であったことから、混声合唱指揮をしていたことについても評価は難しい。 慶應卒業後、彼は大手水産会社の「日本水産」に就職、経理関係の仕事が永く、退職後は建築会社で経理の仕事をしていたが、一生独身であった。家族は、兄妹は妹さんがおられ、お母さまは、晩年病気がちで、その介護をしていた。
 

彼に最後に会ったのは楽友三田サロンで、昨年5月の例会であったと思う。例会では、結構何でも食べて、ビールもジョッキ3杯程度は飲んでいた。体の方は高血圧が持病で、例会には電車で座ってこないと疲れるので、6時30分開始なのに6時には来ており、帰りはいつも座れるように、私と銀座から丸の内線で四谷まで行って、彼は南北線に乗り替え、旗の台まで帰っていた。また、30分程度でトイレに立っていて、血圧のみでなく、他の部分も悪かったのかも知れない。三田サロンの5月例会以降は、忘年会、花見の出欠の返事はあり、「岡田先生を囲む会」の幹事、三戸君への欠席ハガキ(4月初旬)では、体調がすぐれない(飲酒でめまいがする)との返事で、会う機会はなかった。

6月初旬、妹さんから中谷君のところへ電話で「4月末に日比野君が亡くなった」旨の連絡があり、詳細を聞いたところ、近親者のみで密葬も済み、10日に納骨の運びで、通夜、葬儀に出席もできず、納骨に立ち会うこともできず、7月初めに墓参をすることで彼との「お別れ」をすることとなった。

葬儀にも出られず見送れなかったことが残念でならないが、音楽との付き合いを教えてくれた彼に感謝しつつ、心よりご冥福をお祈りしております。(2008年9月)