私が楽友会に入会したのは、彼の勧誘の結果である。大学でたまたま同じクラスになり、慶應高校時代音楽愛好会にいた日比野君、中谷君とマージャン仲間となり、同じ高校から来た、松本君も彼の勧誘で楽友会に入り音楽と向き合うようになった。1〜2年のころは、マージャン屋に行く方が合唱の練習より多かったのではなかろうか。この仲間では音楽の才能があるのは、お父さまがN響のコンサートマスターをされていたことから、日比野君だけで、大学3年、4年になって定期演奏会の女声、混声コーラスの指揮をしていた。練習が混声合唱と女声合唱の日取りが違うため、女声練習で彼がどのような指揮をしていたのかは記憶にない。
大学3〜4年で三田に通うようになると、学生指揮者として演奏会にステージを踏む日比野君を除き、他の同級生は、幹事を仰せつかり、定期演奏会のプログラム作成で、記事集めその校正、印刷屋との交渉、広告取りでスポンサー廻り、と言っても半分はコネによる広告で集金の手間はなかったが、演奏会が近づくにつれ練習どころではなく、また、夏の合宿の際に地方公演を開催することになり、地元慶應OBへの後援依頼など、彼と違って裏方専門であったことから、混声合唱指揮をしていたことについても評価は難しい。 慶應卒業後、彼は大手水産会社の「日本水産」に就職、経理関係の仕事が永く、退職後は建築会社で経理の仕事をしていたが、一生独身であった。家族は、兄妹は妹さんがおられ、お母さまは、晩年病気がちで、その介護をしていた。