編者追伸:
皆を愛し、皆に愛された発チャン!
パーコ(私たちの年代の者は皆こう呼んでいた)は学校卒業後もずっと合唱を続けていました。最初は日本に初めてできた「バッハ合唱団」、次いでそこから分離独立し、楽友会仲間が中心となって創設した「東京スコラ・カントールム」という宗教音楽専門の合唱団で歌い続け、その歌の生涯を全うされたのです。

スコラ時代(1): Dresden近郊のSchirgiswaldeという町の教会での親睦会。
ヘンデルの「ハレルヤ」を当地の聖歌隊の人達と合唱しました(86年5月)。ことばは通じなくても、
歌と食事があればご機嫌!斎藤(5期)、杉原(11期)、浅海(13期)、小笹(4期)も写っています。
パーコの闘病と死は、川上さん(愛称モーリ)の追悼文にあるように、親友にさえ明かされない秘密でした。
合唱団の練習は毎週あり、それまであらゆる練習や行事に熱心に参加されていたパーコが、ある日を境にパタッと来られなくなったので仲間たちは皆不思議がり、その理由を知ろうとあがきました。が、何もハッキリしたことは分かりませんでした。
病気?そんなことは考えられません。いつも元気なパーコでした。誰かと喧嘩?もっと考えられないことです。ズバっと物事の本質をとらえ、直言されることはよくありましたが、決して人を傷つけないおおらかな性格で、皆の信望を一身に集める人柄だったからです。
ずっと独身の孝行娘で、母上といつもご一緒でしたから、家庭に不和が生じたとも考えられません。強いて考えれば、年をとられた母上が病に倒れ、その付添看護で練習に出られなくなったのだろう、と勘ぐるしかなかったのです。
時には親しい女声仲間にパーコの方から連絡があり、食事をしたり、小旅行の計画を楽しく語りあったりしたそうです。
そして05年後半、「東京スコラ・カントールム」がドイツから高名な指揮者を招き、初の古楽器とバロック唱法による本格的「メサイア」の全曲演奏会を企画した際には、ヒョコっと練習に現れたので皆ビックリしました。
それまでパーコの存在は優秀なアルトとしてばかりでなく、豊富な実務経験を生かした会計手腕で欠かせぬ、合唱団の中心的人物でしたから、皆が喜んだことはいうまでもありません。
少しもやつれた表情を見せなかったので、皆は<あー、パーコはやはりメサイアを歌いたいんだ。どんな事情があるにせよ、仲間の存在は忘れないんだ>と思ったものでした。しかし、それはほんの僅かな期間で、すぐに又「天(の)岩戸」にお隠くれになってしまったのです。
だから、いつまた「アーラお元気?」とか言いながら現れるかもしれない、と思っています。特に「メサイア」の季節になるとそう思います。ひょっとしたら、モーリが電話すると「マーごぶさたねー」なんて応えてくれるかもしれません。楽友会やスコラの仲間たちにとって、あのパーコのさわやかな笑顔と明るい笑い声は、いつまでも一緒なのです。 |