以前から、工藤さんから「上京して横浜あたりに来たら一緒に語ろう」とのお誘いを受けていたこともあり、コロナから回復されたら、一緒に飲むこともできるだろうと軽く考え電話を切った次第です。
本年2023年4月に上京した際、楽友三田会のメンバーの方から、工藤さんが体調を崩されているとのお話を少しだけお聞きしました。70歳代ともなると、病気の一つや二つ持っていても不思議ではないので、いかに病気と仲よく過ごすか? 私も健康体ではないので、お互いに残る人生楽しめばよい!と回復を心の中で祈りました。そして、先日ホームページでの訃報を目にした次第です。
工藤さん(14期)と私(20期)は、年齢も離れており同じステージに立ったことはありませんでした。
最初に工藤さんを認識したのは、2009年の「歩こう会、奈良(第一回目)」の初日の前日のホテルのチェックインカウンターにおいてでした。それまでにも新年会などで同じ場にいたことがあったかもしれませんが、言葉を交わしたのはその時が初めてでした。私がチェックインのための書類を出そうとしていた時、受付カウンターに進んでいかれたのが工藤さんでした。レセプショニストと交わされた会話に「楽友会での予約」という内容が聞こえてきたので、きっと「先輩だ」と思い、簡単な自己紹介をさせていただいたのが最初です。夕方の宴会でさらに詳しい自己紹介をさせていただいたところ、なんと、工藤さんは私と同じ小学校の学区の先輩であることがわかりました。京都市左京区にある北白川小学校の学区で育たれた先輩だったのです。この学区は京都大学のグランドなどに隣接し、多くの学者の先生がお住いの地区でした。公立の中学は「近衛(このえ)中学」となる地域で、「北白川」、「近衛」、という如何にも京都らしい名のついた学校、そして公立の高校としては鴨沂(おうき)高校と進む学区でした。工藤さんの時代も私の時代も京都では、いわゆる革新、自由平等という教育施策がとられていたので公立学校の学力レベルは全国でも悪いほう、ということで工藤さんも進路の選択には苦労されたと推察いたしますが、塾に進学され楽友会のメンバーになられたことは工藤さんの人生において大正解だったと思います。(私は公立の中学だとイジメにあう、ということで私学に進んでいます。)
何回か工藤さんと酒席を共にしていると、工藤さんは山下新日本汽船で働かれたことがあることがわかりました。現在の商船三井です。船オタクであり会社員時代に物流を経験した私にとってもっとも興味深い業種の会社にお勤めだったのです。一般的には目立たない存在である海運会社は、ロジスティック、サプライチェーンや貿易立国日本、そして食糧調達の運搬手段としても社会の基幹産業の一つとなっています。船は「海上火災保険」や「海運市況」という言葉が表す危険や世界経済の変動と直接対峙する仕事でもあり、マンパワーが支配する業界でもあります。
その後、海運には素人だった私は多くの実務的な経験談を工藤さんのお話から得てきました。
工藤さんはいつも、「人間は、心を持った人間が感情を自ら声で現すことができる最高の楽器だ」、「一人のときも、仲間と一緒に歌うときも、言葉を発して音楽を作る素晴らしさは格別だ」と楽しそうに話されていました。そして「モツレクも素晴らしいが、個人的にはドボルザークのレクイエムも好きなんだよ」と話されていたことを思い出します。ご冥福をお祈りいたします。工藤さん、どうかゆっくりお休みください。
(2023/5/10)
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