追悼文集

伴博資君の事

池田龍亮(11期)

「伴博資君が7月11日の午後亡くなった」

とのお知らせが、18日にご長男から清水康昭さんにありました。普段から、楽友会の集まりには、ご家族に我儘をいいつつ、可能な限り参加していた事を思うと、お別れを言えなかった本人の気持ちは、如何ばかりであったろうと、殊更胸をしめつけられる思いです。

 
博資さんとは、高校、大学を通じて、その後の楽友三田会合唱団の活動まで、六十年余に亘るお付き合いでした。高校時代、私は一年生の後半から楽友会に参加したのですが、博資さんは4月の入学時から入会し、合唱、それも合唱指揮をやりたいという熱望をもって、頑張っていました。2年生からは、彼は学年指揮者として、私はパートリーダーとして、活動をしながら、彼が個人的に師事していた坂本良隆先生の下で、一緒に和声楽を学んでいた時期もありました。

大学では同期の学生指揮者として、二人三脚で毎年の定演や演奏旅行を通じて、楽しい楽友会生活を過ごしました。同期の仲間達とは、彼のご実家のルーツであった近江八幡や京都を訪問する為、学生の分際で彼の実家の当時『外車』であったフォードのフェアレーンに乗り、国道一号線から開通直後の名神高速道路を、彼が一人で制限速度一杯の運転をしたり、実家のお声がかりで、鴨川沿いの旅館に泊まり、毎晩覚束ない酒盛りをしていた事も、今はとても懐かしい思い出です。

卒業後、彼は三菱信託銀行に就職したのですが、私がIBMにSEとして勤務していた時、担当した最初のお客様が偶然三菱信託でした。お客様との会話の中で、彼の社内での話題に花が咲いた事があります。というのも、三菱信託の渋谷支店に配属された彼は、その支店長さんと二人で新人の挨拶回りにお客様を訪問した際、当時の彼自身の面貌から、お客様が彼と支店長さんとを取り違えてしまい、お客様も支店長さんも、大変恐縮されたという逸話があり、三菱信託事務部のお客様からは、『貴方は大変な同級生をお持ちですな・・』と大笑いで冷やかされた憶えがあります。

その後は、家業に戻り、不動産会社の経営をされたのですが、楽友会の仲間との交わりは、何時も彼にとって第一優先事項であった事を懐かしく想いだします。

博資さん、最後に同期会で会った後、又、この次も、と何度も繰り返し楽しみにされていましたが、今度は私達がそちらにいった所で、もう一度、懐かしい同期会と酒盛りをしましょう。心から、ご冥福をお祈りします。
龍亮

(2024/8/15)

  


編集部 11期の龍亮から追悼文が届きました。有難うございます。

今日は79回目の終戦記念日です。かっぱは4歳7か月の坊やでした。当時は朝鮮の京城(現ソウル)に住んでいました。新聞を眺めると、東京は爆撃で焼野原の写真が掲載されていました。毎日、遊んでいた公園に金網の塀がめぐらされて、間もなく駐留軍が入ってきました。

そこからジープが出てくると、子供たちは走って逃げ回りました。そのジープが、我が家の前で停まりアメリカ兵と通訳が「将校二人が日本人家庭にホームステイしたい」と言うのです。両親は申し出を受け、大尉と中尉が我が家の2階で暮らすことになりました。キャンプから夕方に帰ってきます。夕食が終わると、わたしが2階に上がって行きます。キャプテンは私を膝の上に乗せて、英語を教えました。5歳になる頃には、片言の英語で喋っていたのです。

さらに、キャンプからレコードを持って来ては私の電蓄で掛けました。ビング・クロスビーやダイナ・ショアのレコードが鳴るのです。戦時中に歌ったのは「予科練の歌」でした。「暁に祈る」はよく聴かされました。アメリカンソングは、子供の耳にも洒落て聞こえました。真似して歌い出しました。

昭和21年になってから引き揚げてきました。広尾小学校に近い所に住んでいた親父の叔母の家に同居することになりました。翌年、神田須田町に親父の店を建てて引っ越ししました。須田町には蓄音堂というレコード屋がありました。焼け跡から掘りだしてきた古レコードが並んでいました。幾らだったのか記憶にありません。

(2024/8/15・かっぱ)